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2015.03.23

ネイティブアドよ、死語になれ。

 
先日、こんな発表がありました。
 
<ネイティブ広告>誤認防止で業界が指針策定 定義や表記定める
 
—引用—
「記事なのか広告なのか分からない」などの批判が出ているインターネット上の「ネイティブ広告(アド)」について、業界関係者で組織するインターネット広告推進協議会(JIAA)は18日、「広告であることと、広告主がだれであるかを表示する」などのガイドライン(http://www.jiaa.org/guideline.html)を策定し、発表した。消費者の誤認防止とネット広告市場の健全な育成が狙い。
—引用—

 
つまり、「記事の中で、それが広告ならちゃんと『これは広告ですよ』と読み手が気づけるように表記しなさい」というルールが制定されたということです。
なぜなら、消費者がだまされないようにするため、とのこと。
 
 
ぼくにはむしろこのルールは、「宣告」のように見えました。
 
広告会社のプランナーへは、
「広告の力をもうあきらめてください」と、
 
メディアの編集者には、
「編集の力はもう必要ありませんよ」と、
 
アドテクのエンジニアには、
「精度の高いアルゴリズムはもういりませんよ」と、
 
そういう宣告に聞こえました。
 
 
ネイティブアドって、そもそもなんなんでしょう?
文字通り解釈すれば、「自然な広告」ですかね。
 
 
広告って、
わざわざ「ネイティブ」ってつけないといけないほど
不自然なものでしょうか?
 
ぼくが好きな広告は、
たとえば「そうだ、京都行こう」みたいに、ハっ!と今自分が欲していた栄養や刺激に気づかせてくれるものです。それはとてもウェルカムで、心地の良いものです。
 
広告の頭にもし「これは広告です」って書いてあったら、もう京都になんか全く行きたくなくなります。長塚京三のナレーションが、紳士からエロオヤジに変わります。
 
「この商品を一生懸命つくった人の想いを、これだけ情報が溢れる中で、忙しい読者にどういう言葉なら伝えられるだろう」
 
そういう、メディアプランナーや編集者の絶え間ない努力を、「これは広告です」という一言が凶器となって、すべて台無しにしてしまうんじゃないでしょうか。広告の使命である「広く告げること」ができなくなるんじゃないでしょうか。
 
 
どういう経緯でできたのかはわかりませんし、言い過ぎかもしれないけど、このルールは、新しい消費、雇用、文化、文明の障害だと思うんです。
 
 
ちなみに弊社ごとですが、CINRAが運営している『CINRA.NET』というカルチャーサイトのインタビューは、90%以上、タイアップです。
 
つまり、作品、商品、イベント、なんらかの告知のために、広告主からお金をいただいて、記事をつくっています(注:ニュース記事は販売していません)。
 
タイアップ広告、つまりネイティブアドは、
このメディアを続ける上で、大切な収益源です。
 
なので、編集者は「どうやったらこの商品や作品の魅力が読み手に伝わるか」を真剣に考えています。読者に伝わるためには、広告主の方とバトルすることもあります。
 
広告主によっては、1円も無駄にできない本当に限られた予算の中で、素晴らしい作品を世に広めようとしていらっしゃる方がいます。
 
その予算で、弊社のメディアでの広告展開を選んでくださったのなら、こちらだって1円も無駄にしたくない。1人でも多くの人に伝えたい。
 
 
偉そうなことを言っておいて、まだまだ力が足りていないところが山ほどありますが、「CINRAでやったインタビューが一番よかった」と言っていただいたり、Twitterで読者の方から反響をいただくとやっぱり嬉しいし、担当させていただいた編集者をおおいに誇りに思います。
 
「これは広告です」という一言が感受性のフタをしてしまって、こういう嬉しいことが減ってしまうんじゃないかと不安に思っています。
 
本当は、広告バナ一1つにしたって、受け手にとって不自然なものであってはいけないと思います。
世の中すべての広告が早いとこ自然な広告になって、ネイティブアドが死語になってくれるように、がんばります。
 
 
——————-
2015.7.31追記
本件に関する弊社媒体の今後対応について、以下に投稿致しました。
弊社メディアにおける広告表記に対する考えと今後の方針
 
 

2015.03.09

マネジメントは、永遠に成功しない。のかもしれない。

 
最近、少しずつメンバーが増えてきています。嬉しいことです。
チームにメンバーが増えると、たぶん10人以上とかになってくると、当然ですがマネジメントが必要になります。マネジメントって日本語に訳すとなんだろう。育成? 管理? 指導?
 
なんにせよ、ガンガン自分で仕事をする「プレイヤー」から、そのプレイヤーを育てる「マネージャー」になるというのは、これは相当に難しい。これまでの正解が不正解になるからです。
 
これまでは「(自分が)仕事をして成果をあげる」ことが正解だったのに、マネージャーになった途端、「部下に仕事をして成果をあげてもらう」が正解になる。
 
お客さんから自分への指名でお仕事をいただいたりすると、それはやっぱり1人の人間として嬉しいです。でも、マネージャーになってからそんなことが起きたら、それはもうマネージャー失格ということになります。部下に指名がくる状況をつくるのが、マネージャーとしての正解ですから。
言うは易しですよ、ほんとに。
 
 
じゃあ「マネジメントが成功している」ってどういう状況なんだろうと考えてみました。
(いろんなことの法則を考えるのが好きなんです)
 
で、行き着きました。いや、自分なりにですけど。
 
「マネジメントが成功している状態」には2つの条件がありました。
 
1. そこにいる意味を持てていること
 
2. どこに行っても通用する人材になっていること

 
 
「そこにいる意味」には2つの種類があります。1つは、自分にとっての意味。
自分にとってその会社にいる意味は、事業内容でも、お金でも、ビジョンでも、仲間でも、なんでもいいんだと思います。ともかく、その会社で生き生きと働き続けられる何らかの理由を持っている状態。まだそれを見つけていないなら、一緒に探してあげるのがマネージャーの仕事。大人!!!
 
もう1つは、会社やチームから見たときの「その人がそこにいる意味」。これにもいろんな意味があるんでしょうが、一番シンプルで、どの組織にも共通するのは「成果」でしょうね。会社である以上、成果があがってないと「マネジメントが成功している」とは言えないので。
 
 
2つめの、「どこに行っても通用する人材になっていること」はそのままで、その会社を去った後でも、またどこかのフィールドで活躍し、人から求められ、ご飯を食べていける人材であるか、ということ。その会社ありきではなく、1人の個人として社会の土俵に立てる存在に育てあげられているかということ。
 
この2つの条件なのかなー、普通だなーと思ってたんですが、さすがにすぐ気づきましたね。
この2つが両立することはありえない、と。
 
1はその会社にいることが前提になっていて、2はその会社を離れてからじゃないと証明できないっていう。。。ってことは、永遠に「マネジメントが成功している」とは言えないってことなんだなと。法則でもなんでもないじゃないかと。
 
 
「CINRAって離職率低いよねー」って言っていただくことが多いです。
 
離職率って、それパーセンテージにして数値化しちゃっていいの? 人だよ? それぞれすごい事情あるよ? って思うくらいのお子ちゃま経営者ですし、実際どういう数字のことを離職率と言うのか、よくわかっていないし、この場でググる気もありません。
 
これから人が増えていくにつれて、悲しいかな、これまでよりはその離職率というやつが上がるのは必然かもしれません。
そもそも日本はとても特殊で、1〜3年くらいで次々と転職するのが世界では当たり前、それで継続して成長できてこと立派な組織、というのもよく聞きます。
 
にしても、たしかに今いる人は自慢だし、離職率が低いということが、さっきの法則で言う1つめの状態を保てている証拠のだとしたら、それはすごく嬉しいです。
 
 
でも、その一方で(こんなこと言うもんじゃないのかもしれないけど)、そのうちどこかの誰かに、「あ、○○さん前職はCINRAなんですね。それは期待できるなー」って言ってもらいたいし、それでがっかりさせないどころか○○さんには大活躍していただいて、「おぉ、○○さんすげぇな」と言わせたい。それで「当たり前だろ」って言いたい。陰で。
 
これまた、両立しえないわがままな願いであります。。。