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2014.03.31

シンガポールに1年住んでやっていたこと

 
 

 
「シンガポールに1年住んでみる」というわがままな実験が、3月末で満期を迎えます。
4月からは、東京に住まいを戻しつつ、シンガポールへは出張ベースで毎月行く形。これまでとちょうど逆の生活になります。
 
1年、やっぱり、早かった!
 
あっという間すぎて、何ができたかって、ちゃんと形になったことは、ほんのごくわずか。でも、自分が(ひいては会社が)得られたものと言えば、それはなかなかに大きなものではないかと思います。
 
出発前のこの投稿で、「創業当初のヒリヒリ感をもう一度味わいたい」なんて浮かれたことを書いていますが、たしかにヒリヒリしっぱなし。あの無力感は、なかなかこれまで味わったことのないものでした。でもその分、入ってくる情報や経験を、スポンジのように吸収していける。ありがたい時間でした。この1年を支えてくれたすべての人たちに感謝です。
 
これからもシンガポールでの仕事は取り組んでいきますが、ひとまず区切りは区切りということで、ざっくりとどんなだったか、まとめたいと思います。
 
 
シンガポールへ行くことにした理由は、大きく分けると3つでした。
 
1. ともかく行きたい!
2. 日本の外でも自分は通用するのか?
3. 今の東京・日本を外から見たらどうなのか?
 
1は置いといて……2と3、どちらにも書ききれないほど膨大な感じたこと、考えたこと、起きたことがありました。
 
 
日本の外でも自分は通用するのか?
 
なんかすごい恥ずかしい見出しになってますが、結論としては、勝負すらできなかったです。
 
その理由は、もちろんぼく自身の能力や英語力だったりもするのですが、何よりも、明確な目標が見つけられなかったからです。そもそもビジネスの「勝負」というのは、目標が達成できたかできなかったです。「<いつ>までに<なに>を<どれくらい>する」という明確な目標があって、それができたかできなかったか、ということです。そしてその目標を設定するためには、戦略が必要になるわけです。戦略が決まらないと、目標を定めようがありません。その意味でいくと、この1年、明確な戦略を立てて設定した目標に向かってがむしゃらに走ることはできなかった、というのが正直なところなのです。
 
一応、この1年間のシンガポールでの売上目標のようなものは出発前に立てていたので、力技で終盤になんとかすることができました。とりあえず「食べていけるんだな」、というのはわかりましたが、それを知りたくて来たわけじゃありません。
 
じゃあ何をやっていたのかというと、「自分・自社がこれからどこで勝負できるのかを探し回っていた」ということになります。
 
本来、海外進出ともなれば、1年も時間をかけず、数回だけの視察でバシっと方針を決めます。そしてもちろん社長ではなく、社員数名が駐在することになります。日本で開発したサービスや製品をゴリっとローカライズして、結構な投資をします。これはほとんどの場合、長期戦になるようです。一度決めたから、方針を変えることもできないので、粘り強さが必要になります。
 
便器メーカーのTOTOの社長は、「海外でのマーケット開拓は、数十年単位で見ないとだめ」と言います。ITや広告は10年もすればすべての常識が変わる世界。なのでTOTOとは違うでしょうが、いずれにせよ長期戦は中小企業としてはかなりリスキー。自分としても選びたくないやり方でした。であれば、どんなことが可能なのか? どんなマーケットで、どんなニーズがあるのか? それをきちんと船頭である自分の目で確かめていくような動き方をしたいと思いました。
 
 
具体的には、4つのことをやっていました。
 
1:グローバルクライアントと仕事はできるか?
 
シンガポールはアジアのハブですから、世界中の大企業がアジアのヘッドクオーターを置いています。彼らと仕事はできるのか? 仕事はもちろん、英語です。ネイティブが多いので、早い。仕事のレベルも、当然高い。いきなり超高いハードルです。まず無理そうでしたが、せっかくなので難しいところからやってみたかったので、移住開始からしばらく、よくわからないながらも動いてみました。
 
ひとまずオンラインマーケティングに関するセミナーやカンファレンスに行きまくって知り合いをつくり、LinkedInをフル活用。その後、プッシュしていきます。実際はプッシュしようにも言葉の壁があるので、押してるのか引いてるのかよくわからないかんじでしたが、そういうことを4月から2、3ヶ月くらいやってました。
 
大抵は「Nice to meet you」から、その次のステップに進むことができません。色んな人に助けてもらって進めたとしても、自分が考えた企画を他の人にプレゼンしていただくという情けない状況(ビジネス英語は全然無理なレベルです)。ありがたいながらも、悔しいことばっかでした。
 
もしここでやっていくとしたら、誰にとってもわかりやすい、オリジナリティの高いサービスを提供する。この一点突破が近道だと思いました。言語や文化の違いのストレスすら越えられるくらいのプロダクトがないと、「一緒に仕事しよう」ということにはならないし、フェアな関係にはなれないんだと思います。
 
 
2:Webサービス
 
7月に、「Wantgo(ウォントゴー)」というシンガポールのイベント情報を集めたWebサービスを開始しました。現在は停止中ですが、またバージョンアップして、リスタートする予定です。わずか3ヶ月で立ち上げたサービスでしたが、現地のメディアに取り上げて頂いたり、様々な局面で英語ベースでのやりとりや商談ができて勉強になりました。
まずは日本とは関係のないサービスをしようと振り切ったことで、デザイン、PR、コピーなど、フラットに他のグローバルに浸透しているサービスと比べながらやれたことがよかったです。
 
また、現地のスタートアップの人たちとのネットワークもできました。外国人が新たにサービスをはじめることに対して、この国はとにかく寛容です。シンガポール政府からの投資や助成などのサポート、日系のIT企業や投資企業の活躍ぶりも間近に見ることができました。
 
 
3:日系企業/在外日本人向けマーケットを狙う企業へのサービス提供
 
日系企業や、海外法人だけど日本人向けにもサービスを展開したい企業へのサービス提供です。これが、ぼくのような海外経験や英語力の足りない人間には、最も現実的で、最短距離で成果を出す方法です。このやり方は、残り3〜4ヶ月になった時点で一気にギアチェンして開始しました。久々のテレアポ(笑)。
 
やっぱりやりやすさがケタ違いです。いつものかんじに近い。これまでの他の動きと比べたときに、どれだけ自分が日本の慣習ややり方に頼っているのかも身にしみました。
 
海外で日本の企業がどのように戦っているのかを間近に見させていただくこともできたし、何より自分の強みは何なのかを気づかせてもらえる経験にもなりました。
 
 
4.シンガポールのカルチャーシーンとのネットワークづくり
 
これは1年間、ずっとやっていました。現地のミュージシャンやデザイナーと会い、彼らがどんな作品を作っているのか、どんなことを考えているのかを知る機会を作っていきました。今、どれくらい日本の文化が受け入れられているのかも含めて。この中のつながりから、早くも日本の仕事でコラボレーションできたりしています
 
 

 
 
4つのうちどれも、書き出したらきりがありません。ざっくりと、こういう節操のない動き方をしていました。
限られた時間で「できるだけ多くを知る/見る」が優先事項だったわけですが、「多くを見る」にはシンガポールは世界中のどの国よりも適しているんじゃないかと思います。こんなに世界中の人が集まっていて、こんなにもオープンな国は、他に行ったことも聞いたこともありません。物価の高さはネックですが……。
 
面白かったのは、上記4つとも、関わる人たちも、求められる仕事のスタイルもマナーも、全く違っていたということです。「海外での仕事」ってとかく一括りにして語られがちだし、語ってもらいたいものです。でも、考えてみたら東京だけでも生き方は多様ですから、「海外」って括ったら、それどころじゃないくらい多様なのは、よく考えれば当たり前なことなんですよね。
 
他にも、文化、政治体制、人口問題、医療や治安、インフラ、メディア環境、教育制度などなど、シンガポールと東京との比較は、本当に気づきの多いことばかりでした。「住む/仕事する」という意味では、東京しか知らなかった自分にとって、初めてちゃんと「東京ってどうなのか?」を相対化できる機会でした。それが個人的にも国内情勢的にも、このタイミングでできたことは貴重でした。この辺のことを語り出すと、もう数時間かかりそうなので、控えます。
 
 

そうこうして、1年が経ちました。
 
 
序盤はいきり立って、「海外で働くということ」の答えを探してしまっていたのですが、「んなこた知ったこっちゃない」と思えるようになるまで、少し時間がかかりました。
 
わからないことにほど、答えをくっつけたくなるものですから、それを放棄したというのは、きっと前向きな変化です。
 
もちろん、ぼくが経験できたことはシンガポールやその周辺国だけなので限定的ですが、少なくても自分が「世界」という言葉に持っていた意味不明な憧れや、曖昧模糊としたイメージは削ぎ落とされたかんじがします。
 
これからも外での仕事は続いていきます。
「勝負」を仕掛ける日も、そう遠くはないです。
 

2014.03.04

「いいネットコンテンツ」ってどこにあるの?


 
「いいネットコンテンツ」ってなんだろか?
ってことを考えてたら、脱線しまくってきたのでひとまず書きまくろうと思います。
 
 
いきなり子どもじみた感情論ですが、「業界」や「権威」って、キラいです。(好きな人がいるのかわかりませんが)
 
癒着とか既得権益とか、そういうことに対してアンチを唱えるつもりも勇気もありません。そこじゃなく、業界や権威って、「主観を客観に置き換えて正当化する」んですよね、しょっちゅう。周囲への想像力が足りない。それが、どうにもダメなんです。
 
権威で言えば、ミシュランは「おいしい」という主観を客観的な事実にすり替えるし、視聴率は「面白い」という主観を客観的な事実にすり替えます。
 
業界で言えば、あるデザインを見て、「あー、いいですね。ブランディングできてる。」とかいう談話。これはそもそも日本語の問題。まずはググった方がいいです。
音楽だったら、ある音楽を聴いて、「あー、このアーティスト、いいかんじに育ってますねー」とか誰視点なの?的会話。 あなたがアルバム1万枚買ってくれるの? と思います。
 
バブル崩壊まではそういうんでよかったのかもしれないけど、その人個人と、受け手の価値観の区別がつかなくなって、「いい」が絶対化されちゃう。これが業界や権威の危ういところだし、その独善的なかんじが、どうしても好きになれないのです。
 

(大好きな漫画より引用)
 
 
そこへ来て、先日走ったショッキングなニュースがこれでした。
 
自殺防止呼びかけ広告並べたソウル・麻浦大橋、かえって自殺者が激増―韓国メディア
 
広告業界の話しになりますが、ソーシャルグッド(この単語自体もうよくわからんが)な広告が最近の広告賞を総なめにしています。ソーシャルグッドの何が怖いかって、とりあえず誰にとっても「いい」と思わせる強制力があるからで、それと広告賞のような権威による「『いい』の絶対化」が合わさると、もう手に負えなくなる。その隅っこで何が起こっていても、本当はそれによって傷ついている人がいても、全部無視して「シェア」や「リツイート」という名の豪速列車が「いいーーーー!!!」を世界中に広めていく。この独善性。100%の正義なぞこの世にはないと、過去100年で学んできたはずなのに、なかなかどうしてぼくたちの想像力は成長していきません。
 
 
で、ここでようやく本題。
「いいネットコンテンツ」について考えていたんでした。
 
最近、WEBメディアの新たな台頭がすさまじく、こちらもメディアを長らくやっている身として負けてられんと日々勉強させてもらっています。特に海外では、日本以上にわかりやすいトレンドが形成されています。
海外における新興ウェブメディアの隆盛 〜12のメディアから見えてくるもの〜
 
これらのメディアを見ると、まぁそれは面白いです。BuzzFeedにはよく爆笑させてもらってます。きっと、紙や放送などの従来のメディアに依存しない、ネットならではのコンテンツの作り方が生まれてきているんだろうなぁと思うし、勉強になります。
 
ただ、「あれ? 業界化してないか?」という怖さを感じることもあります。
プレイヤーが増える→セミナーが増える→業界ができる→「いいネットコンテンツ」の正当化がはじまる、という具合で。
 
ただ、こういう「ネットコンテンツの『いい』の絶対化」を考える時に、他の業界と決定的に異なる点が2つあるんじゃないかと思うんです。これは結構問題が根深い。
 
1つ目は、「いい」の指標の存在です。散々語られていることですが、ネットコンテンツの場合は、「PV数」や「いいね数」という客観的指標が存在します。その場合どうなるかというと、「いい」は権威が判断するのではなく、数字をとればOKってことになるので、競争性が高くなる&プレイヤーの流動性が高くなる(流行り廃りが激しくなる)。作る側からすれば、「バズればいいんでしょ?」ってなる。
 
そういうところで「いや、ブランドが…」とか「パクるのはまずいんじゃ…」とか遠慮がちに言ってみても、コンテンツなるもの見られなければ意味がないわけで、反論しづらくなります。たしかに、テレビや雑誌と違って、ネットコンテンツは、見られなければほんとに見られないし、しかもそれが全部数字で明らかになります。せっせと作った身としては、これは実に悲しいことです。。。
ただ、「PV数」と「いいね数」を優先させて考えると、どうしても焼き畑的になります。小売で言うところの「とりあえずセールやっときゃいいでしょ?」みたいなもので、セールばっかりやってプロパーが売れなくなるという悪循環。企業広告であれば、「あの超面白かった広告、どこの企業のだっけ?」って、本末転倒な事態が起きる。持続性や文脈(=実体)が生まれないところに予算が投下され、自然消滅していくわけです。乱暴かもしれませんが、この辺は国家の金融政策と大して変わらないんじゃないでしょうか? とりあえずお札ばらまいても、長期的な経済成長にはつながらないはず。
 
PV数やいいね数も含めて考えられる、新しい実体的な指標や、それに基づくたくさんの好事例が必要になってきていると思います。じゃないと、インターネットというメディア自体への不信がまた高まり、まだ序盤に過ぎないインターネット革命が、遅々として進まなくなる。まぁここまでは綺麗ゴトです。幸いにも、作る側にいるので、やっていかねば。
 
 
2つめは、メディア環境の問題です。こっちの方がもっと厄介です。どういうことかというと、そのコンテンツ自体はその人にとってたしかに「いいコンテンツ」だったのに、すぐ忘れちゃうほどどうでもいいものにならざるをえない環境になっているということです。
 
ヒキのあるコンテンツがFacebookやTwitterで流れてくると、面白そうで、ついクリックしちゃいます。でもそのほとんどがドーピングみたいな刹那コンテンツで、気づくとそういうコンテンツの中毒になってる。感動するようなコンテンツをひたすらクリックして、もはやパンチドランカーみたいになってる。こりゃもう「コンテンツジャンキー」と名付けていいのではないでしょうか? 読む側もですが、作る側も一瞬にして消費されるので、作ることをやめられません。ぼく自身も、1ヶ月前に「いいね」して涙した動画や、こりゃ役立ちそうだと関心した記事のこと、何一つ覚えてない……(ぼくだけ?)。それは本当に自分にとって「いいコンテンツ」だったんだろうか? いや、たしかに心に染みた。でももう忘れた。。。
 
という具合に、「よくても忘れる」という悲惨な状況になってます。少なくてもぼくはそうなんですが、みなさんどうなんでしょう?
 
つまり、コンテンツそれ自体の問題ではなく、インフラ、デバイス、メディアなど、周辺環境によって、「いい」という個人の絶対的価値すら、信用ならないものになってきているという状況です。「業界とか権威とか、キライっす」とかじゃれ合うレベルじゃ済まされなくなってきてる。
 
コンテンツジャンキーになると、少しずつ思考が停止してきます。暇さえあればスマホ見てるし、受信する言葉の量が凄まじいので、思考できなくなる。言葉は人間に思考させるために生まれた発明品。きっと、これまでもこれからもこれ以上のものは生まれえない、最高の発明品でしょう。
 
なのに今、その言葉の量が多すぎて、思考停止させるのに一役買っちゃってるわけです。だからと言って「紙に戻ろう」とか、「情報断食しよう」なんて、不毛だし、そもそもインターネット界隈は最近やたらに楽しいのでそんなことしたくありません。
 
でも、思考停止するくらいなら、正直人間はいない方がいい。他の生き物を必要以上に殺しまくって生きながらえているんだから、思考が止まってしまったら、ただの大量殺戮マシンに成り下がります。
 
もしかすると、もっと若い世代は(この表現さびしい!)、より現代にマッチした情報処理能力を持っていて、うまい具合に知性や価値観を保持しているのかもなぁと妄想したりもします。もしくはただ単に、LINEやWhatsAppなどのメッセンジャーアプリにエスケープして、できるだけ1to1のコミュニケーションに切り替えているのかもしれません。それも1つのサバイブする方法なのかも。
 
うーん、どうにも歯切れが悪いんで、言葉とインターネットの「いい」関係、いろいろ試していきたいです。