01 CINRA

2015.11.15

受託と自社サービスの切っても切り離せない関係の話し

 
我が社・CINRAのある渋谷区道玄坂には、IT企業やスタートアップがたくさん集まっています。なので、街を歩いていたり、近くのカフェに入ると、びっくりするくらいニッチな業界トークを小耳にはさみます。
 
「◯◯が◯億円調達したらしいよ」
とか
「とりあえずCMS入れりゃOKってわけじゃないじゃん?」
みたいな具合です。ぜんぜんOKじゃありませんし、うかつに外で話ができません。
 
 
そして最近、連続で聞いた一言がこれでした。
 
「受託やっちゃえば、全然ラクなんだけどさ」
 
一週間経たぬうちに、一言一句違わずに(たぶん)聞こえたので、もしかしたら同一人物が話していたのかもしれません。
 
そんな血気盛んな若人には、ぜひ当社にエントリーいただきたいのですが、一方で、反射的にムカっときてしまったのも事実です。子供ですいません。
 
 

 
かなりニッチな話しなので、僭越ながら軽く説明を。
 
彼(男子でした)が言う「受託(ジュタク)」とは、クライアント(企業や行政などの取引先)から依頼をされて、広告物やWebサイトなどを制作する仕事のことを言います。
 
これに対するのが「自社サービス」です。クライアントに依頼されるのではなく、文字通り自社でサービスを開発し、運用し、拡大させ、利益を得たり、大きな会社に事業ごと売却したりします。
 
受託の場合はクライアントがいるのでモノを作ることができればお金をもらえますが、自社サービスの場合は作っただけではすぐにお金になりません。膨大な時間と労力を費やすわ、成功確率は低いわで、ビジネスとしては圧倒的にリスキーです。しかし、スケールすれば受託以上のビジネス的・社会的なインパクトを持つことが多いです。
 
そもそもこんなに違う「受託」と「自社サービス」という事業モデルが、なぜ一緒くたに語られるかというと、どちらも、その事業を行うためのタレントが似ているからです。ディレクター、プランナー、マーケター、デザイナー、エンジニア、ライターなど。必要とされる人材やスキルがとても近いのです。
 
一緒くたにできるということは、自社がどちらに比重を置くべきか、選択ができる(ように見える)ということです。
 
ということで、道玄坂の彼が言っていたのは、
「自分たちは自社サービスをやっているが、なかなかに利益が出ず大変なので、いっそのこと受託をやって、サクッとお金を稼いじゃいたい」
という意味なのだと勝手に解釈しました。
 
 

 
弊社の場合、創業から10年以上、受託も自社サービスも、ずっと両輪でやっています。両方の楽しさと大変さを、ちょっとは心得ているつもりです。
 
なので、片方を軽んじたような彼の発言に、大人げなくムっときちゃったのですが、これはいい機会をもらったということで、もうちょっときちんと、両者の違いを考えてみたいと思いました。
 
 
ぼくはよく、この「受託」という仕事のことを医療に似ていると社員に言います。ぼくたちが医者で、クライアント(依頼者)が患者さんだと。
 
もちろん、クライアントを前にいきなりそんなことは言えません。
「ぼくたち医者で、あなたたち患者さんなんでよろしくどうぞ」と言われたら、ぼくならすぐ追い返します。医者となると、どうしても権威がつきまとっちゃう。もちろん真意は、そういう上下関係のことではありません。
 
では何が医療に似ているのか?
 
・患者さんが体の不調を訴える(依頼)
・問診や検査をして、その問題を発見する(ヒアリング)
・治療方法を提案する(提案)
・治療をする(制作・運用)
・健康になる(成果)

 
この一連の流れが、医療の場合は人体を助けるために行われて、受託の場合は企業や組織の活動を助けるために行われます。
 
もちろん、人の命を助けることと組織の活動を助けることの価値は違いますし、他にも異なる点は山ほどあります。
 
しかし、クライアント(患者さん)が言うことを鵜呑みにしないで、いろんな可能性を疑い、ときには熱い議論を繰り広げ、本質的な課題をあぶりだし、仮説をつくって(たまに自分たちのやりたい方向・強みに無理やり寄せながら)、最大の効果を提供する。
 
このバリューチェーンが医療と受託は似ているし、それくらいの気概でやらないと、クライアントのその先にいる多くの人たちに喜んでもらえる仕事はできないと思います。
 
 

 
ようやくここで話が合流します。
 
考えてみると、ますますこの受託と自社サービスの関係も、医療に近いと思いました。
 
受託は、目の前に患者さんがいる、医療の現場
自社サービスは、現場の治療方法そのものが変わりうる、新たな可能性を切り開く研究の場
と考えると、なにやらその関係性が似ている気がします。
 
医療の現場は、体力的にハードだけど、目の前の患者さんにすぐに喜んでもらえる。
研究の場は、成果がなかなか出なくてくじけそうにもなるけど、成功や発明ができれば認められ、世界中の人たちをより多く助けることができる。
 
いや、医療のことはぜんっぜんわかんないので、憶測でモノを言っています。でも、患者さんのことを英語では「Patient」ではなく「Client」と呼ぶ場合もあるそうなので、そういう意味でも遠からずなのかもしれません。
 
ともかく、受託にせよ自社サービスにせよ、その事業の存在理由を「社会やその社会で生きる人たちに提供できる幸せの総量」に求めるなら、医療の現場と研究の関係と同様、どちらもそれぞれに尊く、楽しく、大変なのだと思います(向き不向きはありますが)。
 
最近目にした病院の看板です。
Hospital
『私たちは、利用してくださる方ひとりひとりのために最善を尽くすことに誇りをもつ』
ぐっときました。受託も、こうでなくちゃいけません。
 
 

 
最後に自社の話をもう少しさせていただきます。
 
CINRAが受託と自社サービスを両方続けている、と書きました。
 
受託では、こういったものをつくらせてもらっています。
自社サービスでは、『CINRA.NET』や最近では『HereNow』というWebメディアもはじめました。
 
どちらかにフォーカスすることなく、両方続けているのは、大きな相乗効果があると思っているからです(創業当初は、自社サービスが事業化したら受託はやめるつもりだったのですが)。
 
受託からすると、自社サービスを持っているということは強みになります。
そもそも、クライアントは自分たちでサービスや商品を持っている場合がほとんどです。ぼくたちは、そのサービスや商品の魅力を最大化させたり、課題を解決するための外部パートナーです。常に本気で取り組んでいるとは言え、やはりそこは、外部の人間です。
 
一方のクライアントは、プロジェクトが終わったあとも毎日、ずっと、そのサービスや商品と向き合います。だからこそ、短い期間であっても外部であるぼくたちが、できるだけ事業者側の視点を持つことが大切です。自社でサービスを保有し、毎日毎日積み上げていく経験が、そこで役立ちます。
 
 
自社サービスからしても、受託の存在は大きいです。
自社サービスは、理念と理念から生まれた戦略をいかに現実化させるかという「深さ」を追求する作業が多くなります。ルーチン作業も膨大にあります。そのため、たまに潜りすぎて視野が狭くなり、現在の市況がわからなくなったり、実はぜんぜんニーズのないところを攻めたりしてしまいます。
 
そこで助けてくれるのが、受託の存在です。様々な業種のクライアントやパートナーと仕事をすることで、常に頭の中が相対化されているので、社会のニーズを敏感に感じ取ることができます。そこで得た知識やネットワークが、自社サービスを正しい方向に導いてくれる道標になることがよくあります。
 
 
なんかドヤ感ありますが、もちろん現実はそんなにうまくシナジーが生まれないこともあって、むしろ考えないといけないことが多くてどうしようと思い悩むことばっかりです。それでも、それを差し引いても、受託と自社サービスの両方があることによって受けている恩恵は大きいのではないかと思います。
 
ということで、道玄坂の彼には、ぜひ受託もやってみていただくか、(もう一回すいません)弊社にエントリーしていただければと思います。
 
 

2015.07.31

弊社メディアにおける広告表記に対する考えと今後の方針

 
以前このブログで書いた「ネイティブアドよ、死語になれ」という投稿について、様々なご意見をいただきました。本件についてはその後も各所で議論されていますが、弊社の今後の方針が決まりましたので、発端でもあったこのブログで報告させていただきます。
 
結論から申し上げると、弊社メディア『CINRA.NET』では、現在サイトの全面リニューアルを進めており、それを機に、広告表記をはじめとするJIAAが定めたガイドラインに沿った形で媒体運営をしていく所存です。
 
 
今回の判断をするに至った理由としては、2点挙げられます。
 
1つは、現在のメディア環境に関する私の認識や知識が不足していたこと、2つ目は、記事広告に広告表記をすることで記事や媒体の価値が本質的に損なわれるものではないと考えたためです。
 
1点目については、現在のWebメディア広告に対する私の知識の不足です。
例をあげると、メディアが広告主や広告代理店から広告表記を外すことを要求される事例があったり、それを売り文句として広告を販売したりするケースが横行している現状への私の認識不足です。こうした問題がある以上、該当企業や記事単位での個別の是正だけでは消費者の不利益を解消しきれず、業界全体の「最低限のルールとしての広告表記」の妥当性を認識しました。
 
2点目についてはそのままなのですが、一つひとつ、入念に企画・取材・撮影・編集をしている弊社の記事広告に広告表記をしたところで、その価値は本質的には損なわれるものではありません。
弊社のミッションである「幸せのきっかけを多くの人に届ける」を実行していくためには、コンテンツの品質の追求だけでなく、メディア自身の規模や影響力も大切です。広告表記がミッション遂行に対する本質的な障害ではないのだとすれば、より多くの広告主様や読者さまに安心してご利用いただけるメディアとなり、一層の成長をしていくのが本分であろうと考えました。
 
 
今回の件でいただいた皆様のお考えは、メディアを生業とする自分の襟を正す上でも、大変勉強をさせていただきました。激励いただいた諸先輩方はもちろん、様々なご意見をくださった方にも感謝しています。
 
 
サイトリニューアル後は、表記の面では広告であるか否かの「区別」を行なっていくことになります。しかし、自社のメディアに掲載するコンテンツである以上は、広告でもそうでなくても、読者の方にお届けする責任も、コンテンツづくりに注がれる熱量も同じです。読んでくださった方に喜んでいただき、その方の人生に寄り添える言葉をお届けし、弊メディア開設以来のコンセプトである「新たな文化をつくる」ため、今後一層気を引き締めてメディアを運営して参ります。
 
 
今後とも、何卒よろしくお願いいたします。
 
 
株式会社CINRA 杉浦太一
 

2015.03.23

ネイティブアドよ、死語になれ。

 
先日、こんな発表がありました。
 
<ネイティブ広告>誤認防止で業界が指針策定 定義や表記定める
 
—引用—
「記事なのか広告なのか分からない」などの批判が出ているインターネット上の「ネイティブ広告(アド)」について、業界関係者で組織するインターネット広告推進協議会(JIAA)は18日、「広告であることと、広告主がだれであるかを表示する」などのガイドライン(http://www.jiaa.org/guideline.html)を策定し、発表した。消費者の誤認防止とネット広告市場の健全な育成が狙い。
—引用—

 
つまり、「記事の中で、それが広告ならちゃんと『これは広告ですよ』と読み手が気づけるように表記しなさい」というルールが制定されたということです。
なぜなら、消費者がだまされないようにするため、とのこと。
 
 
ぼくにはむしろこのルールは、「宣告」のように見えました。
 
広告会社のプランナーへは、
「広告の力をもうあきらめてください」と、
 
メディアの編集者には、
「編集の力はもう必要ありませんよ」と、
 
アドテクのエンジニアには、
「精度の高いアルゴリズムはもういりませんよ」と、
 
そういう宣告に聞こえました。
 
 
ネイティブアドって、そもそもなんなんでしょう?
文字通り解釈すれば、「自然な広告」ですかね。
 
 
広告って、
わざわざ「ネイティブ」ってつけないといけないほど
不自然なものでしょうか?
 
ぼくが好きな広告は、
たとえば「そうだ、京都行こう」みたいに、ハっ!と今自分が欲していた栄養や刺激に気づかせてくれるものです。それはとてもウェルカムで、心地の良いものです。
 
広告の頭にもし「これは広告です」って書いてあったら、もう京都になんか全く行きたくなくなります。長塚京三のナレーションが、紳士からエロオヤジに変わります。
 
「この商品を一生懸命つくった人の想いを、これだけ情報が溢れる中で、忙しい読者にどういう言葉なら伝えられるだろう」
 
そういう、メディアプランナーや編集者の絶え間ない努力を、「これは広告です」という一言が凶器となって、すべて台無しにしてしまうんじゃないでしょうか。広告の使命である「広く告げること」ができなくなるんじゃないでしょうか。
 
 
どういう経緯でできたのかはわかりませんし、言い過ぎかもしれないけど、このルールは、新しい消費、雇用、文化、文明の障害だと思うんです。
 
 
ちなみに弊社ごとですが、CINRAが運営している『CINRA.NET』というカルチャーサイトのインタビューは、90%以上、タイアップです。
 
つまり、作品、商品、イベント、なんらかの告知のために、広告主からお金をいただいて、記事をつくっています(注:ニュース記事は販売していません)。
 
タイアップ広告、つまりネイティブアドは、
このメディアを続ける上で、大切な収益源です。
 
なので、編集者は「どうやったらこの商品や作品の魅力が読み手に伝わるか」を真剣に考えています。読者に伝わるためには、広告主の方とバトルすることもあります。
 
広告主によっては、1円も無駄にできない本当に限られた予算の中で、素晴らしい作品を世に広めようとしていらっしゃる方がいます。
 
その予算で、弊社のメディアでの広告展開を選んでくださったのなら、こちらだって1円も無駄にしたくない。1人でも多くの人に伝えたい。
 
 
偉そうなことを言っておいて、まだまだ力が足りていないところが山ほどありますが、「CINRAでやったインタビューが一番よかった」と言っていただいたり、Twitterで読者の方から反響をいただくとやっぱり嬉しいし、担当させていただいた編集者をおおいに誇りに思います。
 
「これは広告です」という一言が感受性のフタをしてしまって、こういう嬉しいことが減ってしまうんじゃないかと不安に思っています。
 
本当は、広告バナ一1つにしたって、受け手にとって不自然なものであってはいけないと思います。
世の中すべての広告が早いとこ自然な広告になって、ネイティブアドが死語になってくれるように、がんばります。
 
 
——————-
2015.7.31追記
本件に関する弊社媒体の今後対応について、以下に投稿致しました。
弊社メディアにおける広告表記に対する考えと今後の方針
 
 

2015.03.09

マネジメントは、永遠に成功しない。のかもしれない。

 
最近、少しずつメンバーが増えてきています。嬉しいことです。
チームにメンバーが増えると、たぶん10人以上とかになってくると、当然ですがマネジメントが必要になります。マネジメントって日本語に訳すとなんだろう。育成? 管理? 指導?
 
なんにせよ、ガンガン自分で仕事をする「プレイヤー」から、そのプレイヤーを育てる「マネージャー」になるというのは、これは相当に難しい。これまでの正解が不正解になるからです。
 
これまでは「(自分が)仕事をして成果をあげる」ことが正解だったのに、マネージャーになった途端、「部下に仕事をして成果をあげてもらう」が正解になる。
 
お客さんから自分への指名でお仕事をいただいたりすると、それはやっぱり1人の人間として嬉しいです。でも、マネージャーになってからそんなことが起きたら、それはもうマネージャー失格ということになります。部下に指名がくる状況をつくるのが、マネージャーとしての正解ですから。
言うは易しですよ、ほんとに。
 
 
じゃあ「マネジメントが成功している」ってどういう状況なんだろうと考えてみました。
(いろんなことの法則を考えるのが好きなんです)
 
で、行き着きました。いや、自分なりにですけど。
 
「マネジメントが成功している状態」には2つの条件がありました。
 
1. そこにいる意味を持てていること
 
2. どこに行っても通用する人材になっていること

 
 
「そこにいる意味」には2つの種類があります。1つは、自分にとっての意味。
自分にとってその会社にいる意味は、事業内容でも、お金でも、ビジョンでも、仲間でも、なんでもいいんだと思います。ともかく、その会社で生き生きと働き続けられる何らかの理由を持っている状態。まだそれを見つけていないなら、一緒に探してあげるのがマネージャーの仕事。大人!!!
 
もう1つは、会社やチームから見たときの「その人がそこにいる意味」。これにもいろんな意味があるんでしょうが、一番シンプルで、どの組織にも共通するのは「成果」でしょうね。会社である以上、成果があがってないと「マネジメントが成功している」とは言えないので。
 
 
2つめの、「どこに行っても通用する人材になっていること」はそのままで、その会社を去った後でも、またどこかのフィールドで活躍し、人から求められ、ご飯を食べていける人材であるか、ということ。その会社ありきではなく、1人の個人として社会の土俵に立てる存在に育てあげられているかということ。
 
この2つの条件なのかなー、普通だなーと思ってたんですが、さすがにすぐ気づきましたね。
この2つが両立することはありえない、と。
 
1はその会社にいることが前提になっていて、2はその会社を離れてからじゃないと証明できないっていう。。。ってことは、永遠に「マネジメントが成功している」とは言えないってことなんだなと。法則でもなんでもないじゃないかと。
 
 
「CINRAって離職率低いよねー」って言っていただくことが多いです。
 
離職率って、それパーセンテージにして数値化しちゃっていいの? 人だよ? それぞれすごい事情あるよ? って思うくらいのお子ちゃま経営者ですし、実際どういう数字のことを離職率と言うのか、よくわかっていないし、この場でググる気もありません。
 
これから人が増えていくにつれて、悲しいかな、これまでよりはその離職率というやつが上がるのは必然かもしれません。
そもそも日本はとても特殊で、1〜3年くらいで次々と転職するのが世界では当たり前、それで継続して成長できてこと立派な組織、というのもよく聞きます。
 
にしても、たしかに今いる人は自慢だし、離職率が低いということが、さっきの法則で言う1つめの状態を保てている証拠のだとしたら、それはすごく嬉しいです。
 
 
でも、その一方で(こんなこと言うもんじゃないのかもしれないけど)、そのうちどこかの誰かに、「あ、○○さん前職はCINRAなんですね。それは期待できるなー」って言ってもらいたいし、それでがっかりさせないどころか○○さんには大活躍していただいて、「おぉ、○○さんすげぇな」と言わせたい。それで「当たり前だろ」って言いたい。陰で。
 
これまた、両立しえないわがままな願いであります。。。
 

2015.01.27

なぜ食べログの評価はあんなに正しいのか?

 
先日クールジャパン関連のネット放送に出させていただき、「日本企業のグローバル化」について考える機会をもらったので、それを書きとめておこうと思います。
 
 
もうちょっとでシンガポールから東京に戻って1年が経ちます。
(やや前置き長いので読み飛ばしていただいてもw)
 
1年間海外にいた反動で、この1年は日本各地をいろいろ回っています。
北海道、山形、京都、大阪、四国4県、広島、岡山、沖縄などなど。
 
海外とか行ってる場合じゃないだろってくらいすごいですね、日本は。
 
 
■ガラパゴス化=グローバル化?
 
で、なんでこんなにすごいんだ? っていろいろ考えてたんですが、やっぱりそれもよくある話しで、島国というか、鎖国してるからなんだろうなぁと思ったわけです。
 
「世界の常識」に触れないでひきこもっているから、極端に個性のある文化が育つ。その「ひきこもり」の結果が、長い時間をかけて観光資産になったり、マンガや食のように、世界に出したときに誇れる「日本の文化」になるわけですから、不思議な話しです。
 
閉じれば閉じるほど、世界に開いていく力を持つ。
 
ということでしょうか。
 
ガラケー文化を筆頭に、日本が世界から切り離されていくことを「ガラパゴス化」と卑下したりしますが、ガラパゴス化の全てが悪いわけじゃなく、その中で「ぶっとんでスゴいもの」は国際的に評価されるということなんだと思います。
 
つまりは「ひきこもれ」。
日々聞こえてくる「グローバル戦略」とか「日本を脱出しろ!」みたいな煽りとは、ちょっとニュアンスが違うかんじです。
 
 
 
■食べログの評価が、あんなに機能しているのはなぜか?
 
じゃあ、日本が生んだ巨大Webサービスってなんだろう、と考えてみたところ、
「食べログ」と「クックパッド」が思い浮かびました。
 
これ考えてみると、どちらも「食」です。
 
日本食は世界的にも評価されているし、日本食に関するコンテンツはグローバルサービスでは網羅しきれないだろうから、この2つが国内で強いっていうのは理にかなっていそうです。
そして、どちらも海外展開はしていないです。
 
 
世界に展開している食べログ的なサービスというと、昨年日本にも上陸した「Yelp」があります。
 
Yelpは、シンガポールに住んでいたときもたまに使ってましたが、まーこれが全然信用ならない。評価高いから行ってみたらびっくりするくらいにマズかったり、そもそもクチコミの絶対数が少な過ぎる。
 
 
食べログが信用できてYelpが信用できない理由については、はじめは日本人はマメだからなんだろうなぁと思っていました。マメだから投稿数が増える。だからクックパッドは盛り上がるし、食べログの評価は信頼できる、と。
 
でも、よく考えると、もっと根本的な理由があることに気づきました。
 
日本が単一民族国家で、外国人がほとんどいないから、です。
つまり、全員味覚が同じということです。
 
 
シンガポールで、とある韓国人にこう言われました。
 
「日本食って、甘いよねー」
 
甘い???
 
そらキムチに比べりゃ甘いわ、って、その場ではスルーしたんですけど、よくよく日本食を食べるときに思い出してみると、たしかに結構甘いんですよね、和食って。ラーメンだって結構甘い。
今までそんなこと思ったこともなかった。
 
日本に住んでるアメリカ人が、
「モスバーガーは無理だよ。あれはハンバーガーじゃない」って言ってたのも思い出しました。
(ちなみにシンガポールではモスは人気)
 
そうか、文化が同じ単一民族だから、
「おいしい」「おいしくない」の基準が同じ。
だから、0〜5で評価をつけて、それがある程度の信頼を持ちうるんだなぁと。
 
多民族で成り立っているシンガポールや、世界中から人が集まるニューヨークでは、食べログやクックパッドのように、物事をキレイに相対評価することはまずできない。
 
食の場合はおいしい/まずいだけど、意見や主張も同じで、正しい/間違ってる、が共通認識としてない。だから、空気を読んでる場合じゃなく、自分の意見を言わないといけない。
 
無意識に自分が固有の文化に「ひきこもっている」ことに驚きます。
グローバルサービスって、そういう固有の事情をほぼ排除してるわけだから、すごいです。
 
 
■日本らしさを追求するか、日本を無視するか。
 
ということで、「日本で成功したサービス=世界でも成功できるサービス」というほど簡単なものではなさそうです。特に日本は、これだけ外との接触がないから余計に難しい。
 
実際に世界で活躍している日本人発のWebサービスも(メタップスさんやヌーラボさんとか)、はじめから世界を相手にしようとビジネスを展開しているケースが多いなぁという印象です。
こういう場合は、最初から日本を経由する必要がない。
 
 
まとめてみると、「グローバル化」への道は大きく2つあるのかなと思いました。
 
1. ひきこもって作られた「日本らしさ」を売りにして外貨を稼ぐ
 
2. 外国現地企業・外国現地人をマネジメントして外貨を稼ぐ
 
 
1は、マンガやアニメ、日本食ですでに事例がたくさんあります。
これはもうグローバルとか英語とかどうでもいいから、徹底的にいいコンテンツをつくるということに尽きるかと思います。
ただ、勝手にこちら側が「日本らしさ」と決めつけてしまっていないか、は注意しないといけません。そこは日本企業ではなく、アウトバウンド先の現地企業と組んでリサーチしないとです。リサーチだけじゃなく、たった数回のチャレンジで諦めない根気と資金力も必要かと思います。これが一番キツい。。。さらに、コンテンツであれば各国ごとに柔軟な権利処理もやらないと、PRすらままなりません。
 
 
2は、大企業であれば、絶賛外国企業を買いまくっているリクルートやソフトバンクです。完全に2020年オリンピック以降、勝ちにいく戦略。。。  ベンチャーであれば、日本人を雇わず、日本とはまったく別のやり方で経営していくということになると思います。完全フラットな戦いなので、かなりタフなやり方ですね。
 
どのみちを選ぶにせよ、かなりの時間と根気とお金が必要ことは間違いないです。
 
 
CINRAはというと、1と2、そこまで思い切れてないです。。。
でも、2015年は、1つ形にしてお見せできると思います!!!