2014.03.04

「いいネットコンテンツ」ってどこにあるの?


 
「いいネットコンテンツ」ってなんだろか?
ってことを考えてたら、脱線しまくってきたのでひとまず書きまくろうと思います。
 
 
いきなり子どもじみた感情論ですが、「業界」や「権威」って、キラいです。(好きな人がいるのかわかりませんが)
 
癒着とか既得権益とか、そういうことに対してアンチを唱えるつもりも勇気もありません。そこじゃなく、業界や権威って、「主観を客観に置き換えて正当化する」んですよね、しょっちゅう。周囲への想像力が足りない。それが、どうにもダメなんです。
 
権威で言えば、ミシュランは「おいしい」という主観を客観的な事実にすり替えるし、視聴率は「面白い」という主観を客観的な事実にすり替えます。
 
業界で言えば、あるデザインを見て、「あー、いいですね。ブランディングできてる。」とかいう談話。これはそもそも日本語の問題。まずはググった方がいいです。
音楽だったら、ある音楽を聴いて、「あー、このアーティスト、いいかんじに育ってますねー」とか誰視点なの?的会話。 あなたがアルバム1万枚買ってくれるの? と思います。
 
バブル崩壊まではそういうんでよかったのかもしれないけど、その人個人と、受け手の価値観の区別がつかなくなって、「いい」が絶対化されちゃう。これが業界や権威の危ういところだし、その独善的なかんじが、どうしても好きになれないのです。
 

(大好きな漫画より引用)
 
 
そこへ来て、先日走ったショッキングなニュースがこれでした。
 
自殺防止呼びかけ広告並べたソウル・麻浦大橋、かえって自殺者が激増―韓国メディア
 
広告業界の話しになりますが、ソーシャルグッド(この単語自体もうよくわからんが)な広告が最近の広告賞を総なめにしています。ソーシャルグッドの何が怖いかって、とりあえず誰にとっても「いい」と思わせる強制力があるからで、それと広告賞のような権威による「『いい』の絶対化」が合わさると、もう手に負えなくなる。その隅っこで何が起こっていても、本当はそれによって傷ついている人がいても、全部無視して「シェア」や「リツイート」という名の豪速列車が「いいーーーー!!!」を世界中に広めていく。この独善性。100%の正義なぞこの世にはないと、過去100年で学んできたはずなのに、なかなかどうしてぼくたちの想像力は成長していきません。
 
 
で、ここでようやく本題。
「いいネットコンテンツ」について考えていたんでした。
 
最近、WEBメディアの新たな台頭がすさまじく、こちらもメディアを長らくやっている身として負けてられんと日々勉強させてもらっています。特に海外では、日本以上にわかりやすいトレンドが形成されています。
海外における新興ウェブメディアの隆盛 〜12のメディアから見えてくるもの〜
 
これらのメディアを見ると、まぁそれは面白いです。BuzzFeedにはよく爆笑させてもらってます。きっと、紙や放送などの従来のメディアに依存しない、ネットならではのコンテンツの作り方が生まれてきているんだろうなぁと思うし、勉強になります。
 
ただ、「あれ? 業界化してないか?」という怖さを感じることもあります。
プレイヤーが増える→セミナーが増える→業界ができる→「いいネットコンテンツ」の正当化がはじまる、という具合で。
 
ただ、こういう「ネットコンテンツの『いい』の絶対化」を考える時に、他の業界と決定的に異なる点が2つあるんじゃないかと思うんです。これは結構問題が根深い。
 
1つ目は、「いい」の指標の存在です。散々語られていることですが、ネットコンテンツの場合は、「PV数」や「いいね数」という客観的指標が存在します。その場合どうなるかというと、「いい」は権威が判断するのではなく、数字をとればOKってことになるので、競争性が高くなる&プレイヤーの流動性が高くなる(流行り廃りが激しくなる)。作る側からすれば、「バズればいいんでしょ?」ってなる。
 
そういうところで「いや、ブランドが…」とか「パクるのはまずいんじゃ…」とか遠慮がちに言ってみても、コンテンツなるもの見られなければ意味がないわけで、反論しづらくなります。たしかに、テレビや雑誌と違って、ネットコンテンツは、見られなければほんとに見られないし、しかもそれが全部数字で明らかになります。せっせと作った身としては、これは実に悲しいことです。。。
ただ、「PV数」と「いいね数」を優先させて考えると、どうしても焼き畑的になります。小売で言うところの「とりあえずセールやっときゃいいでしょ?」みたいなもので、セールばっかりやってプロパーが売れなくなるという悪循環。企業広告であれば、「あの超面白かった広告、どこの企業のだっけ?」って、本末転倒な事態が起きる。持続性や文脈(=実体)が生まれないところに予算が投下され、自然消滅していくわけです。乱暴かもしれませんが、この辺は国家の金融政策と大して変わらないんじゃないでしょうか? とりあえずお札ばらまいても、長期的な経済成長にはつながらないはず。
 
PV数やいいね数も含めて考えられる、新しい実体的な指標や、それに基づくたくさんの好事例が必要になってきていると思います。じゃないと、インターネットというメディア自体への不信がまた高まり、まだ序盤に過ぎないインターネット革命が、遅々として進まなくなる。まぁここまでは綺麗ゴトです。幸いにも、作る側にいるので、やっていかねば。
 
 
2つめは、メディア環境の問題です。こっちの方がもっと厄介です。どういうことかというと、そのコンテンツ自体はその人にとってたしかに「いいコンテンツ」だったのに、すぐ忘れちゃうほどどうでもいいものにならざるをえない環境になっているということです。
 
ヒキのあるコンテンツがFacebookやTwitterで流れてくると、面白そうで、ついクリックしちゃいます。でもそのほとんどがドーピングみたいな刹那コンテンツで、気づくとそういうコンテンツの中毒になってる。感動するようなコンテンツをひたすらクリックして、もはやパンチドランカーみたいになってる。こりゃもう「コンテンツジャンキー」と名付けていいのではないでしょうか? 読む側もですが、作る側も一瞬にして消費されるので、作ることをやめられません。ぼく自身も、1ヶ月前に「いいね」して涙した動画や、こりゃ役立ちそうだと関心した記事のこと、何一つ覚えてない……(ぼくだけ?)。それは本当に自分にとって「いいコンテンツ」だったんだろうか? いや、たしかに心に染みた。でももう忘れた。。。
 
という具合に、「よくても忘れる」という悲惨な状況になってます。少なくてもぼくはそうなんですが、みなさんどうなんでしょう?
 
つまり、コンテンツそれ自体の問題ではなく、インフラ、デバイス、メディアなど、周辺環境によって、「いい」という個人の絶対的価値すら、信用ならないものになってきているという状況です。「業界とか権威とか、キライっす」とかじゃれ合うレベルじゃ済まされなくなってきてる。
 
コンテンツジャンキーになると、少しずつ思考が停止してきます。暇さえあればスマホ見てるし、受信する言葉の量が凄まじいので、思考できなくなる。言葉は人間に思考させるために生まれた発明品。きっと、これまでもこれからもこれ以上のものは生まれえない、最高の発明品でしょう。
 
なのに今、その言葉の量が多すぎて、思考停止させるのに一役買っちゃってるわけです。だからと言って「紙に戻ろう」とか、「情報断食しよう」なんて、不毛だし、そもそもインターネット界隈は最近やたらに楽しいのでそんなことしたくありません。
 
でも、思考停止するくらいなら、正直人間はいない方がいい。他の生き物を必要以上に殺しまくって生きながらえているんだから、思考が止まってしまったら、ただの大量殺戮マシンに成り下がります。
 
もしかすると、もっと若い世代は(この表現さびしい!)、より現代にマッチした情報処理能力を持っていて、うまい具合に知性や価値観を保持しているのかもなぁと妄想したりもします。もしくはただ単に、LINEやWhatsAppなどのメッセンジャーアプリにエスケープして、できるだけ1to1のコミュニケーションに切り替えているのかもしれません。それも1つのサバイブする方法なのかも。
 
うーん、どうにも歯切れが悪いんで、言葉とインターネットの「いい」関係、いろいろ試していきたいです。