2006.07.04

中田英寿引退

中田英寿が引退を発表した。
自身のHPでその胸中を綴っているようだけど、トラフィックがすごすぎて全然アクセスできない。ふんばってたら、なんとか表示できた。これはね、泣けますよ。ほんとに。
nakata.net
中田はビジネスの領域に首をつっこんだり、色々と多彩なかんじで「俺にはサッカーしかねぇぜ!!」というような熱血キャラではなかった。その冷静さが彼のすばらしいプレイを生んできたわけなんだろうけど、どうやら引退は以前から考えていたらしく、中田がブラジル戦の後にピッチに寝っ転がって涙を流していたのもそういうことだったわけだ。
ただ、引退は彼らしい潔い決断なのだろうけど、あそこで寝っ転がって泣いている中田の姿を見て「あぁ、中田はサッカーが本気で好きだってわかっちゃったんだなぁ」と思った。冷静でサッカーだけの人生じゃないスタイルが、マスコミがつくりあげた「中田」なのであれば、あのときは「中田」ではなかったんだろうなと思う。
当たり前の話だけど、習慣というのは怖いもので、仕事や遊びが楽しかろうが辛かろうが、人間は特定の環境に一定期間身を置く事でその環境や境遇に対して無感覚になる。無感覚になると、そのスタンダードよりも楽しいこととか辛いことが起きないと、自分が今楽しいのか辛いのかすらわからなくなる。おまけに、この習慣の奴隷になってしまった日には新しい動きとか、現在の自分の立ち位置に対しても無関心になる。
さらに付け加えると、この奴隷制度は年をとればとるほど支配的になってくるという厄介者で、実際に奴隷になってしまうと、自分を正当化するために根拠のない自信でもって自らを肯定したり、他人を排斥したり何かを否定してみたりする。
だからといって常に冷静に自分を客観視したりなんかしてても、なんの勝負もできないし、面白くもないわけで、そのサジ加減というのはほんとに難しいといつも思う。これぞ、「冷静と情熱の間」だ(読んでないけど・・・)。もしくは「undercooled」(坂本龍一の楽曲の名前)と言ってもいいのかもしれない。
ビジネスマンもアーティストもナショナリストもスポーツ選手も、この”習慣”というものがもつネガティブな部分に対して常に自覚的でないとならないなぁと思う(全員がこれに対して自覚的だと「会社」という組織自体が存続できなくなるような気もするけど・・)。
こういうぼくの自分勝手な解釈で考えても、中田の決断は本当に偉大だ。
個人的な話しだけど、ぼくはcinraを始めたときから毎日、cinraをやめた自分を想像するようにしている。
もちろんやめるわけはないのだけど、自分が一生懸命やっていることが地球規模で見たらありえないくらい小さな行為であり、ほとんど無力に近いということを常に意識していないとダメだなぁと思う。
おまけに今自分がやっていることというのは、どう考えても生まれつきの情熱や欲望が決定させたわけではなく、今までに出会った人だったり環境によって決定したものなわけだから、「俺にはこれしかないぜ!」はどう考えても妄想なのだと思う。ちょっと環境が違えば、ぼくは別のことをやっていたのだと言い聞かせる。そうすることで、自分の「冷静と情熱の間」を維持している。
でないと毎日がバタバタ過ぎて行くだけで、世界がどんどん小さくなってしまって、周りを見なくなってしまう。こうなるとタチが悪く、何もやり遂げていないのに自分がすでに何者かになったような錯覚に陥ったりすることもあったりして、上で書いたような奴隷制度が待っているわけである。
習慣は惰性になってはいけない。惰性になった瞬間に情熱は知らない間にしぼんでいくんだ。もしも習慣が惰性になってしまったことに気づいても、、、もう遅いというケースもある。どこか別のフィールドに飛び込んで、それがいかに大切なことであったかを改めて気づかないとならない。
好きじゃないかも、と思いながらナーナーにつきあってた女性に突如ふられた時に感じる、あの欠落感を感じないと、もうその大切さとか、キラキラ感を感じることはできない。中田もブラジル戦の試合終了のホイッスルが鳴った瞬間にその境地にたどり着いて、サッカーを愛してやまない自分を見つけたのだと思う。
やっぱりすごい人だよ。中田英寿は。