2006.06.11

ICCリニューアルオープンシンポジウムに行く

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とうとうW杯がはじまっちまった。6月は眠い日々が続きそう。。。
今日はICCリニューアルオープンのシンポジウム第一回「ネットワーク社会の文化と創造─開かれたコミュニケーションのために」に行ってきた。
展示も無料で見られるし、以前よりもさらに快適な空間になっていました。
すでに常設でしっかりしているので、企画展示はしばらくないのかもな。。
シンポジウムやトークショーは結構久々だったし、宮台真司、藤幡正樹、斉藤環、司会に浅田彰というすごいメンツだったから多いに期待して行ったのだけれども・・・


形式としては、それぞれが15〜30分のプレゼンテーションをして、それに応じて他の人たちが議論を展開させていくというもの。
最初は宮台氏。ご自分のフィールドということで、政治社会学的な観点からのプレゼンだった。
だいたいは著書や対談で語っていらっしゃることの延長というかんじだったけど、つまりはあらゆるシステム化が進むことによって国民にとって便益となるものを提供する。でもそれは実は結果的に国家が利益を得る図式になっているということを指摘していた。例としては入管法やETCだったりするんだけど、ネットワーク化する社会においてそれがどういう意味で国家に利益を提供するかということについては具体的に言及していなかったように思う。
いずれにせよ、そういうオートマチック化によって、ますます人間(自分)が人間(自分)たる自立性を保持しにくくなっているという問題提起だった。それに抗うための処方箋として、「再帰性」という言葉を掲げていらした。つまりは、今までにあった自分を自立させる要素(故郷とか家族とか人のつながりとか)を別の形で構築していく作業を永遠とやっていくしかないということ。
永遠とそれをやったことで主体性を満足させるようなことはきっと起こらないのだけど、それでもなんとか続けて行かないとならないんだ、と言っていた。
ただ、そんなことも全部忘れて「まったり」生きるという価値観も批判しないし、肯定もできるとおっしゃるのは、すごく宮台さんらしい言い回しだなぁと思うし、事実ぼくもそう思う。それでも自分は再帰性のスパイラルにはまることを厭わず、cinraをせっせとやっているというわけだ。
その後の斉藤氏は精神心理学者ということで、逆にこの再帰性から抜け出すことによって精神病患者が病から脱却することができるのだということをおっしゃっていて、「再帰性」という宮台氏が「処方箋」として考えているものを、逆に「病因」として話しており、ネットワーク社会(web)がそれを助長してしまっている(ネット心中とか)としていたことが印象的だった。
まぁたしかにずーーーっと自己探求をしていたら病にもなりかねない。だから「まったり」生きることが得策だ。そうすれば楽なわけだよ、というようなかんじのお話し(あくまで宮台氏の議論をひきずるとすればこういう話)だったのだけど、正直それは何の問題解決にもならないだろうと思う。
当然その直後に宮台氏から突っ込みが入る。笑
で、藤幡氏はやはりアーティストとして、二人とは対極的にすごくアクチュアルなことをおっしゃっていた。
要約すればアーティストは世界の目撃者であるということ。
一般の人がシステム化する社会に無意識に流されるところを「いや、それ違うよ」とか「それ実はこういう危険を孕んでいるんじゃない?」とか「それ、もっとこういう使い方があるよね」とか、そういう突っ込みを入れる役目がアーティストなのだという(少なくても藤幡氏はメディアアーティストだから、そういう考え方をしているのだろう)。
その目撃者としてのアーティストを受け入れる地盤がヨーロッパにはあるけれど、アメリカと日本にはないというお話しだった。アメリカにないというのは、コンテンポラリーアートの市場はあっても、社会の時代背景的にそういう社会にとって異端的な存在を受け入れるという風習がなかったからなのだという。これはすごく新鮮なお話しだった。
日本の場合、その目撃者がアーティストではなく、お笑い芸人なのだという。例として北野武。北野武が目撃者としてすごくまじめなことを言う。でも彼がお笑い芸人だから「ギャグ」として流してしまう社会がそこにある。これが問題だということ。
言い換えれば、「目撃者」は何も知らない「白痴」なのかもしれないとおっしゃっていた。何も知らないからこそつっこみを入れられる、少なくても他者からはそういう風に扱われる人がアーティストなのだと。
この白痴によって、「まったり」していた人がカオスの世界(外側の世界)に突入するきっかけを得ることができ、その世界を通ることによって主体の可能性を探るようになる=魅力的でありながら辛すぎる自己探求のスパイラルに参加するというようなフローがアートが社会や人に対してあるべき姿なのだという。
そういう具合でああだこうだ言いながら議論が進んで行ったのだけれども、じゃあ具体的にネットワーク化する社会がいかに文化やアートに影響を及ぼし、進化、あるいは退化していくかということに誰も言及しようとしないのは、寂しかった。
浅田氏が司会を務める時点で、やっぱり議論はきれいにまとめられてしまうのである。そのまとめ方が本当に上手なんだけれども、「浅田テンプレート」に収束する様は、彼の口から「アクチュアル」という言葉がでてきたとしても、実際にそうだとは思えないのだ。
マクロでスマートな社会論を語り合うよりは、より具体的で、俗っぽくて泥臭い表現にはなるけれども、だからこそアクチュアルな議論を期待したかった。けどまぁあの時間の中では仕方なかったのかもしれない。
個人的には、上記の白痴であるアーティストが一般の人に「外側の世界」を提示しうるのだとしたら、その可能性は具体的にいかにしてネットワーク世界で顕在化しうるのか、もしくはネットワークがその方法を円滑化してくれるのかということが気になって仕方がなく、ずっと考えている。
それにしてもこのシンポのタイトルは「ネットワーク社会の文化と創造─開かれたコミュニケーションのために」。
あまりにも議論が「メタ」すぎたのではないかなぁ。笑