2006.03.11

プロフェッショナルか、マルチプレイヤーか

今日は池尻にある会社のwebサイトのメンテナンスのために、いわゆる出向をした。
担当者の方から他の社員の方に「webデザイナーの杉浦さんです」と紹介していただいた。
コーラだと思って飲んだのが実はコーヒーだった時と同じくらい違和感を感じて、はて、ぼくは果たしてwebデザイナーだったのだろうかと自問する。全くもって不正解。プロからしてみれば、デザインの「デ」の字もわかっているかどうか疑わしい。でもじゃあわざわざその会社に出向いて何をしているかというと、webページの修正もあるし、webデザインも実際やっていたりする。
じゃあぼくはなんなんだろうと思う。
webデザイナー(今日初めて)
プロデューサー(ディレクターと分けられる程分業体制はできていないから)
ディレクター(プロデューサーと分けられる程分業体制はできていないから)
オーガナイザー(イベントの主宰をやるとそうなる)
営業マン(この時だけスーツ着用)
編集長or編集者(取材や記事を編集したりする)
社長(ひやかし)
などまぁ様々である。
正直、呼び名とか、そんなことはどうだっていいんだけど、よくよく考えてぼくは何かのプロフェッショナル(職人と言った方が近い)になりたいとはコレっぽちも考えていない事が判明した。
でもそれはたぶん、ぼくに限った話しではなく、単純に時代の流れとして何かのプロフェッショナルになるのがすごく難しいのだ。情報が多すぎて、誘惑がそこら中を渦巻いている。
そうなってくると、その中でもがんばって何かのプロフェッショナルになるか、もしくは完璧なマルチプレイヤーになるか、どちらかしかない。
なんだか当たり前のことを言っているようだけど、「完璧なマルチプレイヤー」はプロフェッショナルになるよりもずっと難しい。自分を支える「軸」がないのに、唯一無二の一貫した自分の価値観を持たなくてはならないからだ。
大抵の自称マルチプレイヤー(たぶん現在を生きる若者のほとんどがそうなんだろう)はその場その場に応じて「キャラ」をたてて、その場その場の価値観をもって、思考して、判断する。そんなんじゃあ面白くもなんともない。
完璧なマルチプレイヤーになるには、何者も受け入れる器と同時に、全てを斬る判断力が必要になるのだ。さらにその判断力は、一貫性と同時に柔軟性も兼ね備えている。ぼくの知る限り、歴史上そういう人は数えるくらいしかいない。でも、そういう人になりたい。
最近、司馬遼太郎の『坂の上の雲』を再読している。久しぶりの小説だ。少しずつで全然進まないんだけれども、今日はいいところにあたった。正岡子規、まさに完璧なマルチプレイヤー。
ちょっと長いけど、引用。

「あしはこのところ旧派の歌よみを攻撃しすぎて、だいぶ恨みを買うている。たとえば旧派の歌よみは、歌とは国歌であるけん、固有の大和言葉でなければいけんという。グンカンということばを歌よみは歌をよむときにはわざわざいくさぶねという。いかにも不自然で、歌以外にはつかいものにならぬ。」
〜中略〜
「和歌の腐敗というのは、要するに趣向の変化がなかったからである。なぜ趣向の変化がなかったといえば、純粋な大和言葉ばかり用いたがるから用語がかぎられている。そのせいである。そのくせ、馬、梅、蝶、菊、分といった本来シナからきた漢語を平気でつかっている。それを責めると、これは使いはじめて千年以上になるから大和言葉同然だという。ともかく、日本人が、日本の固有語だけをつかっていたら、日本国はなりたたぬということを歌よみは知らぬ」
「つまりは運用じゃ。英国の軍艦を買い、ドイツの大砲を買おうとも、その運用が日本人の手でおこなわれ、その運用によって勝てば、その勝利はぜんぶ日本人のものじゃ。ちかごろそのようにおもっている。固陋はいけんぞな」
と、子規は、熱っぽくいった。

最近、短く文章を書く事ができない。。
あまりよろしくない傾向だ。
完璧なマルチプレイヤーへの道は、なかなかに険しい。